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更新日:2020年8月4日
長年にわたり山梨ワインの振興に取り組み、「甲州ワイン伝道師」の異名を持つ当機構理事長・仲田道弘による『甲州ワインの基礎知識』連載企画です。第2回は、甲州ワインの誕生について。これを読めばあなたも甲州ワイン通になれるかも!?全4回、隔週でお届けします。
江戸時代にもワイン造りについての記録は、本朝食鑑や手造酒法などいくつかある。しかし、それらは、いずれもブドウ果汁を煮詰めてシロップにして、焼酎などに入れた飲み物だった。これらはEUワイン法によるとワインではない。ワインとは、新鮮なブドウ果汁をアルコール発酵させたものだからだ。
日本に欧州のワインが本格的に入ってきたのは幕末の横浜開港のときだ。多くの外国の船員が横浜のバーでワインを飲んで酔っぱらう姿が、当時の横浜文庫に残されている。
横浜開港 酒に酔いたる図。上の黒いビンは赤ワイン、白いビンは白ワイン。
横浜文庫 橋本蘭斎画(1862~1865)。国立国会図書館所蔵
このとき、甲府の真言宗大翁院のお坊さん山田宥教が「何か新しい商売ができないか」と横浜に通って、寺の周辺に自生する山葡萄でワインを造った記録がある。
真言宗大翁院跡地(甲府市武田三丁目)
山梨では甲州屋という輸出のお店がいち早く作られ、生糸や蚕種などの特産品が販売されていた。その店の2階はいつしか甲州人のたまり場になっていて、樋口一葉の祖父などがワインやビールなどを試飲したことが知られている。また、甲府では洋物店があってワインやイギリスのビールなどが並んでいた記録もある。
神奈川横濱新開港圖(神奈川県立図書館蔵)
甲州屋はこの絵の右隅にあったという。
その後、宥教は明治3年から甲府の日本酒蔵の詫間憲久とともに甲州ブドウでもワイン造りを始め、明治7年には赤白約4千本のワインを醸造している。この時白ワイン用に使ったのが勝沼産の白ブドウ、つまり甲州ブドウである。甲州ワインはこのように商売っ気あふれるお坊さんと酒蔵の主の手によって誕生したのだ。
明治7年府県物産表(国立公文書館蔵)
白葡萄酒(甲州ワイン)4.8石 = 864リットル = 約1,200本
赤葡萄酒(山ブドウ)10石 = 1800リットル = 約2,500本
そして、この時のワインの醸造量は国の統計年表に記録され、明治8年になると東京方面に売り出される。陸海軍へ納入しようとした記事が甲府新聞に記録され、また、明治8年9月の読売新聞には「輸入された洋酒ではなく、甲州製の葡萄酒か麦酒を飲み貿易赤字を解消しよう」という投書もみられる。
明治8年2月10日 甲府新聞(山梨県立図書館蔵)
明治7年秋に詫間憲久が造ったワインの醸造方法。白ワインは勝沼の甲州葡萄を使用している。
明治9年には、カリフォルニアで8年間ワイン造りに携わった内務省内藤新宿試験場の大藤松五郎が、県の仲介で詫間のワイン造りに参加する。甲州ワインやスイートワイン、薬用ワインなど1万本を醸造し、明治10年の第一回内国勧業博覧会に出品。「レモンのようだ」との評価で銀賞を獲得し、甲州ワインのデビューが飾られたのだった。
第一回内国勧業博覧会出品目録(国立国会図書館蔵)
山梨県立葡萄酒醸造所(山梨県立図書館蔵)
明治9年~10年にかけて大藤松五郎が責任者として設立した。
現在も残る山梨県立葡萄酒醸造所で使われていた井戸(甲府・舞鶴城公園内)
Vol.3へ続く。(次回は8月19日掲載予定です)
【著者紹介】
甲州ワイン伝道師 仲田道弘
(公社)やまなし観光推進機構 理事長
山梨県庁入庁より、25年以上にわたりワイン産業の振興に携わり、「甲州ワイン伝道師」の異名を持つ。
また、グルメ漫画『美味しんぼ』の原作者・雁屋哲さんに甲州ワインの魅力を伝え、2001年に発行された『おいしんぼ 80巻 日本全県味巡り山梨編』に登場。
著書に、2018年『日本ワイン誕生考 知られざる明治期ワイン造りの全貌』、2020年8月25日には、明治時代14人のワイン関係者に焦点を当てた『日本ワインの夜明け~葡萄酒造りを拓く~』(株)創森社より発行。