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更新日:2023年2月17日
ドラマなどでも話題の徳川家康。実は、甲斐の国(山梨)にも来ていて激しい戦を繰り広げていました。今回は、甲府に入る直前に家康が宿泊したと伝わる甲府市右左口宿(うばぐちじゅく)をご紹介。地元の英雄で信玄公として慕われる武田信玄も要衝として考えていたとも伝わる土地です。
家康もここで「山梨に入ってどうする?」と考えたのかもしれません。
徳川家康画像(伝狩野探幽筆)大阪城天守閣蔵
※複製禁止
家康は生前の信玄公と戦い大敗した(三方ヶ原の戦い)と伝わります。そんな因縁の地になぜ家康は来たのでしょうか?
天正10年(1582年)3月に織田信長により武田家が滅ぼされた後、山梨は信長の家臣河尻秀隆がおさめていました。しかし、その年の6月本能寺の変で信長が亡くなり、さらに河尻秀隆も一揆で死んでしまい山梨は主がいない土地となってしまいました。
その土地を狙っていたのが相模の国(現在の神奈川県)を治めていた北条氏。その北条氏の動きをけん制するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の命令を受けて家康は山梨に来ることになりました。
当時家康がいた浜松から山梨に入るルートとして、身延ルートもありましたが、当時身延は、領主(穴山梅雪)が本能寺の変で亡くなってしまったことで非常に混乱していました。それもあり、家康は右左口地区(古道「中道往還」)を通って甲府盆地に入ったようです。
甲府市右左口町。甲府からだと国道358号を経て30分ほどで到着する山沿いの地区です。右左口宿は山梨と静岡を結ぶ中道往還沿い、北岳や八ヶ岳など甲府盆地の山々を一望できる場所にあり、要衝として信玄公の時代から重視されていました。「甲斐国志」という歴史書にも「右左口は要害(敵を防ぐのに適している場所)の地である」という記載もあるほど!
この土地に家康はしばらく滞在し、各地に派遣した家臣から敵の動向をきくなど今後の戦略を練ったそうです。まさしく、どうする?家康と言える土地です。
右左口から見た甲府盆地の眺め
家康が滞在したと言われるお寺・敬泉寺。瓦に葵の紋が刻まれています。同寺の入口には「宝蔵倉」と呼ばれる倉があり、家康が右左口を訪れた時に領民の働きに感謝した「朱印状」が保管されていました。(現在は山梨県立博物館に寄託されています)
徳川家康朱印状
(※甲府市宿区所蔵、山梨県立博物館画像提供)
この朱印状は税金免除や静岡から山梨に魚を運ぶ権利を与えるなど非常に有利な内容が書かれており、山梨県内では右左口にしか伝わっていません。また、地元の人はそれに非常に感謝し、家康のことを「神君」(しんくん)と敬意を込めて呼んで今もそれが伝わっています。
家康が滞在した敬泉寺
また、同寺の敷地内には東照神君御殿場跡(とうしょうしんくんごてんばあと)という家康の滞在を記念した石碑も立てられています。
家康の滞在を記念した東照神君御殿場跡
家康から朱印状をいただいたことで非常に有利な内容で商売ができた右左口は往還の宿場として非常に栄えたと伝わっています。駿河湾で早朝にとれた魚は右左口を通って甲府に運ばれました。そのため、右左口の人たちは商人としての気質が強く、右左口人形という人形浄瑠璃が作られるなど文化も発展していたと伝わります。また、漂泊の歌人として伝わる山崎方代も右左口出身です。
右左口地区は山沿いの土地のため、道路の開発を免れて当時の面影を残しています。圧巻なのは下宿(しもじゅく)の道祖神から見上げる右左口地区の様子。かつての中道往還の面影と自然が調和した絵画のような雰囲気が醸し出されます。ちなみに、右左口宿には、下宿、中宿(なかじゅく)、上宿(わでじゅく)に道祖神がおかれています。
古き街並みを残す右左口宿
信玄公が愛した山梨に残る徳川家康の足跡。今回は信玄公と家康が重要視した右左口宿を紹介しました。
右左口地区から見る甲府盆地は信玄公と家康が見た景色と一緒かもしれません。
取材・文/石田
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