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更新日:2016年2月26日

武田家と真田信繁(幸村)~「日ノ本一の兵」の赤いルーツを探る~赤備えのルーツ!?編

2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」。主人公の真田信繁(幸村)は、祖父の真田幸隆の代から武田信玄に仕え、父・昌幸も武田家の家臣であり、武田家とゆかりのある人物です。この武田家と真田家の関わり合いや両家にゆかりのある山梨県の観光スポットなどを5回にわたって紹介します。
第3回目は、真田信繁の「赤備え」のについて紹介します。

戦国最強部隊の象徴「赤備え」

真田信繁の赤備えのルーツは武田軍にあり!

真田信繁は「赤備えの武将」とも言われている。信繁は大阪夏の陣で部隊の装飾を赤で統一し、徳川家康本陣にあと一歩のところまで攻めあげた。その戦いぶりは家康を驚がくさせ、「真田の赤備え」の名を歴史に残すことになった。


そもそも赤備えとは戦国時代の軍団の編成、装飾の一種で、兵士の鎧や兜から、旗指物、陣羽織などにいたるまで、あらゆる武具を赤色にした軍団のことをいう。赤備えの軍団は当然目立ち、敵に狙われやすくなるだけに、特に統率と武勇に優れた武将が率いる精鋭部隊であることが常だった。


その赤備えのルーツは、実は戦国最強軍団であった武田軍にあるといわれている。武田軍の“甲軍の猛虎”として知られる飯富虎昌(おぶとらまさ)が始めたとされ、「赤でそろえた武田軍は、その戦いぶりからも火の玉が飛んでくるようであると恐れられていた」と平山優氏はいう。飯富の没後は弟の山県昌景(やまがたまさかげ)に引き継がれ、赤備えは武田軍の最強部隊であり象徴的部隊となったのだ。


武田信玄率いる武田軍と徳川・織田の連合軍が戦った「三方ヶ原の合戦」では、赤備えの最強部隊武田軍に徳川家康は散々に打ちのめされ、家康の生涯で最大の敗戦と言われている。後年、家康はこの時の苦渋の表情を描かせたと言われている。「しかみ像」と呼ばれるこの絵を生涯手元に置き、決して慢心しないように敗北を自戒していたという説も文化遺産オンラインでみうけられ、それほどまでに赤備えの武田軍は最強だったのだろう。


武田家が滅亡した後、赤備えは徳川家康に召し抱えられた山県昌景の遺臣とともに、徳川四天王の一人である井伊直政に引き継がれた。井伊直政もまた武勇に優れ、その戦いぶりから“井伊の赤鬼”と恐れられた。

 

 

朱札紅糸素懸威胴丸(しゅざねべにいとすがけおどしどうまる)前・後:(甲斐国二之宮美和神社所蔵)

 

徳川家康軍を大敗させた戦国最強部隊の武田軍をルーツとする赤備え。信繁は家康との戦いとなった大坂夏の陣でそれを取り入れることで、部隊の士気をさらに高めようとしたのだろう。「赤備えは武田軍を思い起こさせるだけに、家康にはいやなものだっただろう」と平山氏もいう。またそこには、武田家の系譜を継ぎ、武田信玄の弟の名もとっている信繁の、武田家の武勇に対しての尊敬の念もあったのだろう。


そんな数々の武勇伝を残す戦国最強の武田軍の勇姿を見られる機会がある。ギネス世界記録に認定された山梨が誇る世界最大級の武者行列「甲州軍団出陣」が開催される「信玄公祭り」だ。武田軍が勇壮華麗に出陣する。

 

信玄公祭り(左:出陣式 右:軍団出陣)

高い人気を誇る信繁!その秘密は?


JR上田駅前に建つ信繁の銅像

「長いものに巻かれない!正しいと思ったことを通す!大国の横暴に屈しない!そんな勧善懲悪の精神が真田家には代々ある」と平山氏。そんな真っすぐな生き方をした信繁の栄光、そして悲劇的な最期・・・。劇的ともいえるその生きざまに、多くの人々が魅かれるのだろう。

武田家と真田信繁(幸村)~「日ノ本一の兵」の赤いルーツを探る~ 連載

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