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風の軍団

1番隊

信玄の信頼厚い赤備隊の猛将

おぶひょうぶのしょうゆうとらまさ

飯富兵部少輔虎昌

(?~永禄8年10月15日)

武田家の譜代家老で、山県昌景の実兄。信玄の父信虎と対立し挙兵したこともある反骨の人であった。信虎追放後は信玄を支え、信濃国内山城(佐久市)、塩田城、室賀城(上田市)の在番や城主を歴任し、村上義清や上杉謙信の侵攻に備えた。信玄の嫡男義信の傅役となるなど重用されたが、義信と信玄が対立すると、虎昌は義信を庇い、責任を一身に背負って自刃したという。

参加団体南部町

風の一番隊

2番隊

武功で34枚の感状を貰った弓矢巧者

よこたびっちゅうのかみたかとし

横田備中守高松

(長享元年~天文19年10月1日)

伊勢国出身の浪人であったが、武田信虎に召し抱えられ騎馬30騎、足軽100人を率いる足軽大将となった。信虎・信玄二代の重要な作戦のうち、34度に参加し、そのため全身に31ヶ所の疵痕があったと伝わる。天文19年(1550)、信玄が村上義清の属城戸石城(上田市)の攻略に失敗し退却する際、高松は、殿軍をつとめ、村上軍の追撃を一身に受けて戦死した

参加団体JR東日本グループ

3番隊

六連銭の旗印、城攻めに知略を発揮

さなだだんじょうのじょうゆきたか

真田弾正忠幸隆

(永正10年?~天正2年5月19日)

真田氏は、信濃国小県郡を中心に発展した滋野一族の支流で、幸隆は名族海野氏の出身といわれる。天文10年に、信玄の父信虎に攻められ、海野棟綱らとともに上野国に亡命したが、同15年までに信玄に臣従し、信濃経略で活躍した。後に出家して一徳斎と号した。晩年は上野国経略に専心し、岩櫃城、白井城などを攻略し、武田氏の上野国西部制圧を確実なものとした。天正2年に病没した

参加団体山梨市

4番隊

信玄の弟で武人画家としても優れた技量

たけだぎょうぶしょうゆうのぶかど

武田刑部少輔信廉

(天文元年~天正10年3月24日)

信虎の3男(実は4男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。信廉は、武将としての活動よりも、画家としての実績のほうが著名で、父武田信虎画像、母大井夫人画像などを残している。兄信玄の死後、出家して逍遙軒信綱と称し、勝頼を補佐した。武田氏滅亡後、織田軍に捕らえられ、立石(鮎川原)で殺害された。

参加団体住友電工デバイス・イノベーション株式会社

5番隊

上杉謙信の動きを監視した合戦巧者

ばばみののかみのぶはる

馬場美濃守信春

(?~天正3年5月21日)

甲信国境の豪族教来石氏(武川衆)の出身で、天文15年(1546)に信玄に抜擢され、馬場氏の名跡を継いだという。川中島の戦いでは、山本勘助とともに「啄木鳥の戦法」を立案し、信玄に献策した。永禄5年より、信濃牧之島城に在城し、海津城の高坂弾正とともに上杉謙信の監視を行った。長篠の合戦では、勝頼を逃がすため殿軍を担って奮戦の末戦死した。その活躍は、織田方も称賛した。

参加団体富士急行株式会社

6番隊

行政官僚としても手腕を発揮

さいぐさかげゆざえもんのじょうまささだ

三枝勘解由左衛門尉昌貞

(天文6年~天正3年5月21日)

三枝氏は、古代以来の甲斐土着の豪族で、鎌倉時代に入って、甲斐源氏の勢力下に入った。父土佐守虎吉とともに、信玄に仕え、昌貞は奥近習に抜擢され、その後、足軽大将となり騎馬30騎、足軽70人を預けられた。昌貞の武勇に、感心した山県昌景が、腰刀と山県姓を与え、山県善右衛門と名乗らせたという。天正3年の長篠の戦いでは、姥が懐砦を守備し、酒井忠次軍と戦って戦死した。

参加団体甲府信用金庫

甲府信用金庫