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本陣隊・武田時代隊

たけだしんげんこうほんじん

武田信玄公本陣

武田信玄公本陣の旗

武田信玄の本陣は、甲州軍団の頭脳であり中核であった。その構成は、大将信玄を中心に、前面には鉄炮衆、長柄衆、弓衆が三段で控え、その後ろに騎馬衆が配置され、信玄を敵の攻撃から守っていた。さらに御中間衆、廿人衆、近習衆(側近)と本陣を守る重臣、一族が幾重にも信玄を取り囲み、本陣の標識である大将旗、風林火山の軍旗、諏訪明神旗などが林立していたという。これら武田信玄公本陣の将卒は旗本と呼ばれ、甲州軍団の人々の尊敬と憧憬を一身に集めていたという。

参加団体山梨県及び一般公募

武田信玄公本陣

たけだじろうのぶちかたい

武田次郎信親隊

武田次郎信親隊の旗

信玄公と三条夫人の次男。眼を患って盲目となったので半僧半俗の生活を送った。また同時に信州海野城主であり、海野二郎信親と名乗る武将でもあった。その死後、嫡子信道は武田家の嫡流として子孫を伝承する。

参加団体東京ガス山梨株式会社

東京ガス山梨株式会社

たけだしろうかつよりたい

武田四郎勝頼隊

信玄の四男、仮名は四郎。生母は諏訪御料人(湖衣姫)。諏訪氏の後継者とされ、長じて伊那郡高遠城主となり、伊奈四郎とも呼ばれた。兄義信の死後、信玄の後継者となり、武田家統領となったが、長篠合戦で織田信長に敗れ、天正10年に織田・徳川・北条三氏に攻められて滅亡した。享年37歳。

参加団体甲州市

おおいふじんぎょうれつ

大井夫人行列

大井夫人行列の旗

武田氏支流の強豪大井氏の出身。父は大井信達。父と夫信虎はかつて甲斐統一をめぐって争ったが、信虎に敗れて降伏した。この時、信虎に嫁いだとされる。その後、信虎との間に信玄、信繁、信廉らをもうけている。夫信虎追放後は落髪して武田氏館の北側に隠棲、御北様と呼ばれ敬愛された。天文21年病没。享年55歳。

参加団体南アルプス市

南アルプス市

さんじょうふじんぎょうれつ

三条夫人行列

三条夫人行列の旗

京都の公家三条公頼の次女。天文5年(1536)に武田信玄の正室として嫁いできたといい、それは今川義元の仲介によるものとされる。信玄との間に、嫡男義信、次男龍芳、三男信之、長女黄梅院殿(北条氏政正室)、次女見性院殿(穴山信君正室)らを生んでいる。50歳で死去。

参加団体一般公募

三条夫人行列

こいひめたい

湖衣姫隊

湖衣姫隊の旗

武田勝頼の生母。実名は不明。湖衣姫は作家新田次郎氏の創作。通常は諏訪御料人と呼ばれ、諏訪頼重と側室麻績氏との間に生まれた。生年は天文元年(1532)と推定される。同14年に信玄の側室となり、同15年に勝頼を生んだが、弘治元年(1555)11月6日に死去。勝頼は、高遠城下の建福寺を菩提寺と定め、生母の墓所を設けた。

参加団体山梨学院大学国際リベラルアーツ学部

山梨学院大学国際リベラルアーツ学部

たけだたろうよしのぶたい

武田太郎義信隊

仁科五郎盛信隊の旗

信玄の嫡男である。母は三条夫人。武田家の継承者として信玄公や重臣の期待を担った。常に先鋒として戦場に出て勇敢に戦った。戦場では信玄公と作戦を巡って意見対立するほど自主性を持っていた。知勇兼備えた侍大将である。

参加団体サンスターグループ

サンスターグループ