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山の軍団

1番隊

夜襲が得意で「火車」鬼を打ち取った豪傑

ただあわじのかみみつより

多田淡路守満頼

(?~永禄6年12月)

多田淡路守は、美濃出身の浪人。仮名は三八郎といい、多田三八と略称されることが多い。足軽大将に任命され、信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所の疵痕があったという。信濃虚空蔵砦を警固していた時に、現れた鬼を退治したとの伝説がある。満頼の死後は、息子多田新蔵が後継者となったが、長篠の戦いで戦死したと伝わる。

参加団体朝日生命保険相互会社 甲府支社

2番隊

文武両道に秀でた北条氏との折衝役

いたがきするがのかみのぶかた

板垣駿河守信方

(?~天文17年2月14日)

武田氏の譜代家老で、両職という最高職に就任していた重臣。甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。天文10年の武田信虎追放の際には、甘利・飯富らの宿老を説得し、信玄擁立を果たしたという。信玄が、同11年に諏訪頼重を滅ぼすと、上原城(諏訪市)で占領地の統治にあたった。天文17年2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原の合戦で戦死した。

参加団体旭陽電気株式会社

3番隊

17度の合戦で17の功名を立てた武芸達者

おばたぶんごのかみまさもり

小幡豊後守昌盛

(天文3年~天正10年3月6日)

小幡虎盛の息子。父の死後、自ら希望して信玄の旗本となった。馬の名手で、敵状視察に赴き敵に追われても決して捕まることがなかったという。武田氏滅亡の際は、病気のため、勝頼に従うことができず、甲府善光寺門前で暇乞いをしてまもなく死去した。信玄・勝頼の事績を描いた、『甲陽軍鑑』の編者小幡景憲は、昌盛の3男である。

参加団体NECグループ

4番隊

織田信長との交渉役を務めた譜代家老

あきやまほうきのかみとらしげ

秋山伯耆守虎繁

(大永7年~天正3年10月21日)

秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。天文15年(1546)に侍大将に抜擢され、大島城などの城代を歴任、伊那の土豪春近衆を配下に置き、織田・徳川氏を監視した。元亀3年(1572)、信玄が西上作戦を開始すると、虎繁は美濃に侵攻し、遠山景任未亡人(織田信長の叔母)の守る岩村城を奪取した。長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。

参加団体甲府市(新紺屋地区自治会連合会)

甲府市(新紺屋地区自治会連合会)

5番隊

鬼退治で有名な渡辺綱に例えられる剛勇者

はらみののかみとらたね

原美濃守虎胤

(明応6年~永禄7年1月28日?)

下総国千葉氏の一族原氏の出身。信虎に仕える。部下10人で100人分の働きをするといわれ、武田家から賜った感状は38通、全身の傷痕は53ヶ所に及び、鬼美濃と恐れられたという。天文20年には信濃国平瀬城主に任命された。信玄の出家とともに剃髪し、清岸と号した。永禄4年(1561)、信玄が信越国境の上杉方の拠点割ケ岳城を攻めた際に重傷を負い、川中島の戦いには参加できなかった。

参加団体甲府市(一般社団法人甲府青年会議所)

6番隊

他国の情報と軍法の知識で功績

やまもとかんすけはるゆき

山本勘助晴幸

(?~永禄4年9月10日)

三河国牛窪出身の浪人で、隻眼となり、片足も不自由になったという。天文12年(1543)、板垣信方の推薦で、信玄に召し抱えられ、足軽大将となる。内政、軍略、築城術に関する信玄の諮問に答え、さまざまな意見を具申する軍師として、重用された。永禄4年(1561)の川中島の戦いで、上杉謙信撃滅の秘策として、「啄木鳥の戦法」を進言するが失敗し、責任を痛感して、乱戦の中に身を投じて戦死した。

参加団体YOKOGAWAグループ