ここから本文です。

林の軍団

1番隊

軍略家として優れた西上野支配の譜代家老

ないとうしゅりのすけまさひで

内藤修理亮昌秀

(?~天正3年5月21日)

武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。馬場信春に代わって信濃国深志城(現在の国宝松本城の前身)の城代となり、永禄末年ごろ、内藤家の名跡を継ぎ、修理亮を称した。天正3年(1575)の長篠の戦いでは三重柵をすべて突破するなど奮戦したが、徳川軍に反撃され戦死した。

参加団体株式会社YSK e-com

株式会社YSK e-com

2番隊

軍事的に重要な役割を果たした知将

おやまださひょうえのじょうのぶしげ

小山田左兵衛尉信茂

(天文9年?~天正10年3月24日)

小山田氏は、武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族で、中津森(後に谷村)に館を構えて、都留郡を支配した豪族。信茂は、兄弥三郎信有が、永禄8年(1565)8月に病没したため家督を相続し、信玄・勝頼二代に仕えた。勝頼時代には、武田信豊とともに武田氏を支え、上杉氏との同盟交渉では中心的役割を果たした。武田氏滅亡後、織田軍に捕らわれ、処刑された。

参加団体東京ガス山梨株式会社

3番隊

御親類衆の筆頭として手腕を発揮

あなやまげんばのかみのぶきみ

穴山玄蕃頭信君

(天文10年~天正10年6月2日)

信君の生母は信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見松院殿である。信君は、今川氏とも親交が深く、信玄の今川攻めに際しては、今川家臣の調略を担ったという。長篠の合戦で、山県昌景が戦死したため、駿河江尻城主に就任し、織田・徳川・北条三氏の圧力を防いだ。武田氏滅亡の際は、織田・徳川氏に降伏し、武田氏の再興を夢見たが、本能寺の変に巻き込まれて死去した。

参加団体パナソニックグループ

4番隊

信玄、勝頼二代にわたった側近

つちやうえもんのじょうまさつぐ

土屋右衛門尉昌続

(天文14年~天正3年5月21日)

西郡の豪族金丸虎義の次男で、金丸平八郎と称していた。信玄の奥近習六人に選抜され、永禄4年(1561)9月の川中島の戦いでは、本陣の信玄を守り奮戦したことから、名族土屋氏の名跡を与えられた。元亀元年(1570)に右衛門尉に任官され、100騎を預かる侍大将に取り立てられた。天正3年(1575)の長篠の合戦で戦死した。

参加団体富士通アイ・ネットワークシステムズ、富士通Japan

5番隊

教養と学識の高い信玄の補佐役

たけだてんきゅうのぶしげ

武田典厩信繁

(大永5年~永禄4年9月10日)

信虎の次男(実は3男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称した。この官途の唐名が典厩であったため左典厩と呼ばれた。信玄を支えて信濃経略で活躍した。永禄元年(1558)息子信豊に、99ヶ条に及ぶ家訓を与えた。その全文に渡って、中国の古典が引用されており、信繁の学識の高さがわかる。川中島で壮烈な戦死を遂げた。

参加団体株式会社山梨中央銀行

6番隊

優秀な武士を召し抱えた「伊達者」

いちじょううえもんのたいふのぶたつ

一条右衛門大夫信龍

(?~天正10年3月)

信虎の7男(実は8男)。信玄の異母弟。武田氏の一門衆(御親類衆)として、100騎を率いた。信龍は、常日ごろから、武具の手入れや更新を怠らず、諸国の浪人の中から、逸材を召し抱えるよう、心懸けていた。天正10年の武田氏滅亡の際には、本拠地上野城に籠城して徳川家康と戦い、信就とともに市川で処刑されたと伝わる。

参加団体桔梗屋グループ