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更新日:2025年1月16日

岩殿城

【甲府城連載企画 vol.6】第51回「信玄公祭り」にかこつけて甲府城の魅力を発信|岩殿城編

2025年4月4日から6日にかけて、甲府の街には県内外、いや日本国内外から大勢の人が詰め寄せる。世界最大の武者行列「甲州軍団出陣」に熱狂するためだ。その出陣式の会場となるのは史跡甲府城跡。この連載を読んできた方は思うだろう、「甲府城と武田信玄って関係ないじゃん!」。そう、その通りである。でも、こんなふうに思いを馳せてほしい。山梨が世界に誇るヒーロー武田信玄が、この夜、現代に甦るのである。山梨を愛し、その後も甲斐国を見守り続けた彼が、後の繁栄の拠点となった甲府城に降り立つのは不思議なことではない。この祭りの間、発展の礎を築いた信玄の魂は、現在の街の姿を観てまわりながら堂々と練り歩くのである。

信玄公祭り開催までの3か月間は、毎月甲府城と武田時代の城を比べて、違いや魅力を知る企画に形を変えてお送りします。その第1回目は、大月市にある岩殿城です!

この記事を書いたのは・・・

久保田さん

山梨県埋蔵文化財センター

副主査・文化財主事
久保田 健太郎(39歳)

石器が専門だが、同じ石だからという理由で(~)、山梨県庁入庁1年目から甲府城の石垣の担当になる。以来、石垣の呪いにかかり、全然関係ない遺跡の発掘をしても高確率で石垣がみつかる。

高い石垣に囲まれた甲府城。安土桃山時代以降、急速に普及した「近世城郭」と呼ばれるタイプのこの城と、戦国時代らしい土塁と堀に囲まれた武田時代の城を比べたら、全然違うに決まってる。と言われてしまいそうだが、あえて比べてみるこの企画。

今回は、中央本線からもその威容を臨める岩殿城(山梨県大月市)だ。

岩殿城は江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』などの記載から、戦国時代に郡内地方を支配した小山田氏の詰城だと長らく考えられてきた。ところが1980年代後半の研究で、武田家が直轄していた可能性が指摘されるようになっている。築城時期やその後の経営に関わる資料が少ないためにわからないことも多いが、甲斐国の東の守りを固める重要な拠点であったといえるだろう。

石垣の城と岩壁の要塞

独立丘陵を鎧のように取り囲む甲府城も見事だが、岩殿城が私に抱かせるのは圧倒的な迫力。超ド級の迫力である。岩殿城には戦を闘い抜こうとする者たちへの剥き出しの恐怖のようなものを感じる。その原因が、巨大にして急峻な岩壁である。そう、どちらも石がキーなのだが、甲府城が石垣の城なのに対して、岩殿城は岩壁の要塞なのだ。

甲府城が築かれた小山が安山岩という岩でできている一方で、岩殿城を構成するのは礫岩(れきがん)という岩だ。ここの礫岩は、海の底に溜まった砂や小石が圧縮されるなどして互いに癒着することでできている。だから、そこかしこに露頭する礫岩の岩肌をよくみると、そこには砂粒や小石を見ることができる(写真1)。普段安山岩ばかりに慣れ親しんでいる私だが、礫岩のこのツブツブした感じも、なんかいい。

岩殿城の地盤をなす礫岩の表面
(写真1)岩殿城の地盤をなす礫岩の表面

砂や小石は水の流れなどに乗って少しずつ溜まったものなので、細かい小石ばかりが運ばれて溜まった時の地層と比較的大きな小石が運ばれて溜まった時の地層が交互に積み重なっている様子も見られる(写真2)。

砂や小石が溜まっていった履歴(地層)がよくわかる岩肌
(写真2)砂や小石が溜まっていった履歴(地層)がよくわかる岩肌

山の中に城の痕跡を探す

岩殿城の本丸(「本城」と呼ばれる)は、東京スカイツリーと同じ標高634mの岩殿山山頂にある。岩殿城に来て本丸を目指すということは、つまり登山をするということなので、しっかり準備してきてほしい。実はここ「岩殿山」は、東京近郊の登山スポットとしても大人気の場所だ。

本丸に至るルートはいくつかある。そのうち最も一般的な麓の丸山公園から登るルートは、安全確保のため現在通行止めとなっているので、岩殿山の北東側にある「畑倉(はたぐら)登山口」から登ってみよう。

登山ルートに入ってすぐ、私たちを待ち受けるのは巨大な岩陰「新宮洞窟(しんぐうどうくつ)」である。鬼の岩屋の名も持つこの岩陰は、この山が岩殿城となる前、修験道場の円通寺であった頃にお堂があった場所だという。厳しい岩山は修行の場としても望ましい、霊験あらたかな場だったのだろう。

「畑倉登山口」からの登山道は極めて厳しい。私のような運動不足×万年寝不足のアラフォーでなくとも、慣れた人でなければキツイ山道になるはずだ。登っている最中には、小規模な曲輪(山中に造成された平らな土地)かな?と思ったり、これは自然の谷ではなくて人為的な竪堀(山の傾斜に沿って掘られた堀)かな?と思ったりする場所もあるが、ここではできるだけ脇目を振らず、安全に登ることを考えてほしい。しっかり足もとをみながら登っていくと、そこかしこに礫岩が顔を出しているのもみられて嬉しい。

本丸に辿り着いたら、富士山の美しい姿を眺めつつ呼吸を整えて、南西側に降りてみよう。いくつもの曲輪が連続する。最も広い「馬場跡」とされる曲輪の向こうに東屋がある。そこからの景色は絶景だ。手前をダイナミックに蛇行する桂川、段丘上に広がる大月市街地、いくつもの山々が山水画のように折り重なった向こうには、秀峰富士の姿をみることができる。

岩殿城からの眺め
(写真3)岩殿城から富士山を臨んだ景色。富士山の方へ進むと富士吉田方面、右奥へ進むと甲府盆地、左に行くと関東平野へと続く。各地からの交通の結節点であることは、甲府城下町と共通する。

さらに降りていくと、迫りくる巨岩の間をすり抜けるように進まねばならない「揚城戸跡(あげきどあと)」が姿を現す。震えるほど巨大な礫岩が折り重なる場所だが、岩壁の要塞らしいスポットだ(写真4)。

岩殿城の巨岩の表面は自然な岩肌にみえるが、どこかしらにツルハシなどで削った痕跡はないかな?と思って、探してみた。なかなか見つからない。

でも、1か所「これは?」と思う痕を見つけた。写真⑤に書き込んだ黄色い矢印に沿って、ツルハシかノミによって削り出したような、溝状の痕跡がある。ただ、この石のすぐ隣には現代に整備した石段があるので、この痕跡は戦国時代のものではなく現代のものの可能性もある。

甲府城築城以前の、甲州の土木技術の実態は、まだわかっていないことが多い。岩盤を要する山体の造成がどんな風になされたのか…を考えることは、その一端に迫るということにもなる。

武田氏から織田、徳川、豊臣への政権の変遷の中でも歴史的な場面となった岩殿城。その一方で、この連載で見てきたような土木技術という観点で歩くのも、おもしろいだろう。

「揚城戸跡」の迫りくる巨大な礫岩
(写真4)「揚城戸跡」の迫りくる巨大な礫岩

岩肌に残るツルハシもしくはノミ加工の痕?
(写真5)岩肌に残るツルハシもしくはノミ加工の痕?

 

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