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更新日:2025年4月4日

甲州軍団出陣前夜!第51回「信玄公祭り」にかこつけて甲府城の魅力を発信#3|武田氏館跡編

2025年4月4日から6日にかけて、甲府の街には県内外、いや日本国内外から大勢の人が詰め寄せる。世界最大の武者行列「甲州軍団出陣」に熱狂するためだ。その出陣式の会場となるのは史跡甲府城跡。この連載を読んできた方は思うだろう、「甲府城と武田信玄って関係ないじゃん!」。そう、その通りである。でも、こんなふうに思いを馳せてほしい。山梨が世界に誇るヒーロー武田信玄が、この夜、現代に甦るのである。山梨を愛し、その後も甲斐国を見守り続けた彼が、後の繁栄の拠点となった甲府城に降り立つのは不思議なことではない。この祭りの間、発展の礎を築いた信玄の魂は、現在の街の姿を観てまわりながら堂々と練り歩くのである。

信玄公祭り開催までの3か月間は、毎月甲府城と武田時代の城を比べて、違いや魅力を知る企画に形を変えてお送りします。第3回目は、ついに武田信玄の本拠地「武田氏館跡」です!

この記事を書いたのは・・・

久保田さん

山梨県埋蔵文化財センター

副主査・文化財主事
久保田 健太郎(39歳)

石器が専門だが、同じ石だからという理由で(?)、山梨県庁入庁1年目から甲府城の石垣の担当になる。以来、石垣の呪いにかかり、全然関係ない遺跡の発掘をしても高確率で石垣がみつかる。

高い石垣に囲まれた甲府城。安土桃山時代以降、急速に普及した「近世城郭」と呼ばれるタイプのこの城と、戦国時代らしい土塁と堀に囲まれた武田時代の城を比べたら、「全然違うに決まってる。」と言われてしまいそうだが、あえて比べてみるこの企画。

3回シリーズの最終回は、いよいよ信玄自身が住んだ館、武田氏館跡(山梨県甲府市)だ。

館をめぐる巨大な堀と土塁

私の自宅から武田氏館跡へは、歩いて10分程度だ。だから子どもたちが幼い頃はよく散歩がてら連れて行ったものだ。武田神社で参拝して、館の周囲をグルッと歩いて帰るのだが、館を取り囲む堀の深さと土塁の巨大さには、いつも圧倒される。扇状地上に立地しているため、館は北から南へ傾斜する地形の上に築かれている。そのため、堀は低い方(南側)が水堀、高い方(北側)が空堀となっている。水を湛えた南側の堀の向こうにみえる土塁の景色も美しいものだが、お薦めは東側から北側にかけてにみられる空堀だ。吸い込まれるように深い堀を堀底まで覗くことができる。

そう、武田氏館跡は、高い石垣を伴う近世城郭以前の、堀と土塁の館なのである。

堀の向こうに土塁がみえる武田氏館跡の景色と、堀の向こうに石垣がみえる甲府城跡の景色を見比べてみるのも楽しい。徒歩30分で、戦国時代末期の城づくりの変革を感じられるのは、甲府ならではの魅力だ。

武田氏館跡の正面玄関

現在、武田神社の境内となっている武田氏館跡を訪れたら、南側の太鼓橋をわたって参道を行き、参拝を済ませる人がほとんどだろう。しかし、信玄の時代には、ここに出入口はない。当時の正面玄関は東側(神社に向かって右手)にある大手だ。

だからといって、必ず東側の大手から入ってほしいとは言わない。武田信玄を祭神とする武田神社が創建されたのは大正時代のことだが、信玄へのリスペクトは江戸時代から続くもの。だから、神社への参詣も信玄を敬い愛する人々の歴史的な心性を辿り、継承するものだと言ってもいいと私は思う。

それをさておき、私がここで書かねばならないのは、やはり東側にある館の正面玄関、大手についてだ。

写真(1)を見てほしい。右手の森が館の内部、芝生の一帯がその正面玄関の前に広がる曲輪である。土塁と堀に囲われて、簡単には館の内部に入っていけなくなっている。前回ご紹介した新府城跡の「大手」と同じだ。

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(写真1)武田氏館跡の正面玄関

今度は写真(2)を見てほしい。堀にかかる土橋を渡って館へ入っていくルートを写したものだが、新府城跡の大手と同じように一筋縄では進入できない「仕掛け」があるのもわかる。新府城跡では、外から真っすぐ中へ進めないように通路を「三日月堀」というバナナのような形のお堀と、その内側の土塁とが分断していた。

写真に見えるように、ここでは三日月堀ではなく四角い石塁が館内への直進を邪魔している。前回、三日月堀は武田氏の城や館によくみられるものだと書いた。それならば、その代表的な場所である武田氏館跡の正面玄関にもありそうなものだが…。ここに三日月堀が見当たらないのには理由がある。

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(写真2)大手正面玄関前の石塁

重なり合う2つの時代

実は、ここにも三日月堀があったことが発掘調査で確認されている。三日月堀が埋められた後に石塁が築かれていたのだ(写真3)。武田氏の時代に、この場所で敵の進入を阻もうと頑張っていたのは三日月堀だったのである。

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(写真3)石塁の下の三日月堀

武田氏館跡には、武田氏滅亡後に改修工事の手が入れられている。

例えば館の南西側に位置する「梅翁曲輪」と呼ばれるエリアは、武田氏滅亡後の徳川期※に城代の平岩親吉によって整備されたと考えられている。それに、現在武田神社の本殿などが鎮座する「主郭」に石垣があったことや、それらが豊臣政権下で甲斐国を統治した加藤光泰が築造したことを示す絵図もある。大手の三日月堀も、こういった武田氏滅亡後に実施された館の改築の中で埋め立てられ、その上に石塁が築かれたものと考えられている。

甲府城築城までの間ではあるが、政治・軍事の拠点として機能すべき館を、自分たちのスタイルに合わせて改変するのは自然なことで、それも館の運命であり甲斐国の歴史である。だから、後から築かれた石塁を除去して三日月堀を復元するのではなく、三日月堀は埋設保存し、その上の石塁を整備する方法が、ここでは採用されている。

どちらも直線的な進入を阻むものだが、構造のことなる者同士が重なり合っていることが面白い。前回の新府城跡同様、時代の変革期を駆け抜けた館だからこその特徴である。武田氏の時期の構造物と、それ以降の構造物をより分けながら散策する必要があるが、要所ごとに甲府市歴史文化財課による調査成果を記した看板が設置されていてわかりやすい。

それに武田氏館跡の外には、甲府市によるガイダンス施設「信玄ミュージアム」ある。解説や出土遺物、シアターもみられるので、ぜひ訪れてほしい。

4月4日から6日にかけての信玄公祭りを皮切りに山梨は春を迎える。暖かな陽気を楽しみつつ、甲府城跡をはじめとする戦国から近世の城・館を散策してみよう!

※徳川氏による甲斐国の支配時期は「豊臣系大名による統治前」と「1600年以降幕末まで」の2時期に大別される。ここでは、豊臣系大名による統治前の徳川期を指している。

甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)

住所:山梨県甲府市大手3丁目1−14

詳しくはこちら(外部リンク)

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